第42話   釣禅一致   平成15年10月02日  

昔から日本人は特に武道家達は武道の悟りと禅の悟りと同じように見做して来た。悟りを開くと「」を感じるらしい。一流の剣豪は皆悟りの境地を開いたとして一派を開いた。新陰流の上泉伊勢守を始め卜伝流の塚原卜伝、柳生新陰流の柳生但馬守宗厳、一刀流の伊藤一刀斎景久、小野派一刀流の小野忠明、二天一流の宮本武蔵、大捨流の丸目蔵人佐徹斎等書き上げれば切がない。この時代は神仏混交の時代であり、ある者は神に祈り、ある者は仏に祈り「」の境地に至り自分の信ずるところにより各々一派を開いた。落語家の柳家小さん師匠が剣道好きで地方公演に行った時は、必ず剣道の道場があれば其処へ立ち寄り良く汗をかいたと云う。其の時に色紙を頼まれると必ず座右の銘に「剣禅一如」と書いた。これなど字は違っていても同じようなものだ。ただ違うのは本人が其の境地に達していたかどうかは本人でないと分からないのだ。先人に憧れ自分も其の境地に至りたいという意味であろう。

ならば釣の世界でも「釣禅一致」、「釣禅一如」の世界があっても不思議ではない。たとえば石化けと云って渓流釣りの名人は人の気配をまったく感じさせず、人の気配に敏感なイワナをヒタヒタと釣り上げたと云う術、技があったと云う。ただ、本人がそう感じているかどうかの問題でこれなど正に「釣禅一致」、「釣禅一如」の何者ではない。釣をしている時、気楽に「釣れる、釣れる」と自分に暗示を掛けている時や「当たれ、当たれ」と知らず知らずの内に竿先に念を込めている時がある。又、全神経を一本の竿先に集中し、少しの当りも逃すまいと「」になる事がある。凡人の自分には分からないが、そんな状態を長く続けられるかどうかではないか? と思う。釣の体験を長くやっていれば、一度や二度はそんな事をした事があると思う。その様な時は相当に疲れる。疲れるが気分が清々しくなる。特に神経が集中出来るのは、大抵夜釣りで、一人暗闇で静かに竿を垂れている時である。この数年は夜釣りに行ってないので、何時もお気軽な柔らかい5mの中通し竿で近場のウキ団子釣に徹している。今は釣れても釣れなくとも釣に行くだけで面白い。そんな暇なお年寄りの釣になってしまった。ただ、最近はたまに「当たれ、当たれ」とウキに念を送る位の事はある。

釣禅一致」、「「釣禅一如」とか「無」なんて手先の技術のみを優先する昨今の釣では考えられない事ではあるが、技術と格好は一流でも、釣師としては三流の人が如何に多い事か? 等と云っては今の若者に嫌われてしまう。時代がそういう風になってしまったのだから・・・。